登入
銀河の果てに、エデンという名の星があった。
その星は、遠くから見ると宝石のように美しかった。淡い青を帯びた大気が薄絹のように星を包み、白い雲はゆるやかに渦を巻き、夜の側には都市の光が静かな血脈のように浮かんでいた。大陸には深い森があり、透明な湖もあり、山脈の頂にはいつも雪があった。海は黒く、昼には銀を溶かしたように光った。
そこに生きる者たちは、自分たちをヒューマノイドと呼んでいた。
彼らは地球に住むという人間によく似ていた。泣き、笑い、愛し、憎み、夢を見て、失望した。手をつなげばぬくもりを感じ、誰かを喪えば胸が裂けるように痛んだ。空腹になれば食べ、疲れれば眠り、幼いころに聞いた歌を、大人になってもふと思い出した。
つまり彼らは、生きていた。
生きている以上、幸福があった。
朝、窓を開けたときに入ってくる風。焼きたてのパンの匂い。はじめて誰かに名前を呼ばれたときのくすぐったさ。雨上がりの庭で見つけた小さな花。何気ない会話の途中で、相手も同じことを考えていたと知る瞬間。愛する者の寝息を聞きながら、自分はこの人のそばにいてよかったのだと思える夜。
けれど、生きている以上、苦痛もあった。
病があった。裏切りがあった。孤独があった。貧しさがあった。老いがあった。事故があった。争いがあった。どうしても救えない命があり、どうしても取り消せない言葉があり、どうしても戻らない昨日があった。
はじめは、誰もそれを世界の欠陥だとは思っていなかった。
苦しいこともある。だが楽しいこともある。
悲しいこともある。だが美しいものもある。
ヒューマノイドたちは、そうやって長い時間を生きてきた。家族を作り、町を作り、国を作り、空を飛び、病を治し、人工知能を生み、星の裏側と瞬時に言葉を交わすようになった。彼らは自分たちを賢い種族だと信じていた。過去より現在はよくなり、現在より未来はさらによくなる。そう信じることが、文明というものの呼吸だった。
しかし、ある時代を境に、その呼吸は乱れ始めた。
きっかけは小さな言葉だった。
誰が最初に口にしたのかは、もうわからない。歴史書にはいくつもの説が残っている。北方の哲学者が書いた断章だったという者もいる。戦争で子を喪った母親の叫びだったという者もいる。治療不可能な病の患者が残した遺書だったという者もいる。
ただ、その言葉だけは残った。
生まれて来なければ、辛い思いをしなくてよかったのに。
その言葉は、はじめ人々を沈黙させた。
あまりにも冷たく、あまりにも単純で、そしてあまりにも否定しがたかったからだ。
苦しんでいる者に向かって、生きていればいいことがあると励ますことはできた。今は辛くても、いつか笑える日が来ると抱きしめることはできた。だが、生まれてこなければその苦しみ自体が存在しなかったのではないか、と問われたとき、多くの者は返す言葉を失った。
幸福は、存在しなければ失われない。
だが苦痛もまた、存在しなければ生まれない。
それならば、存在しないことこそが最も安全なのではないか。
その問いは、はじめは哲学者たちの間で語られていた。次に医療倫理の会議で語られた。やがて教育機関で、家庭で、酒場で、葬儀場で、恋人たちの寝室で語られるようになった。
やがて、それは思想になった。
反出生主義
生まれてこないことこそが、最大の救済であるという考え。
もちろん、はじめから全員が受け入れたわけではない。多くの者は反発した。子どもの笑顔を見たことがある者は、それを否定する言葉に怒った。愛する者と出会えた喜びを知る者は、生をまるごと過ちと呼ぶ思想に耐えられなかった。
しかし時代は、反出生主義に味方した。
巨大な災害が起きた。長雨による飢饉があった。ある都市では感染症が流行し、幼い子どもたちが次々に息を引き取った。別の都市では思想対立が暴動になり、病院が焼かれた。救えるはずの命が救えなかった。助けたいと願った者ほど深く傷ついた。
そのたびに、誰かが言った。
生まれてこなければよかったのに。
言葉は雪のように降り積もった。
やがて一人の人物が現れた。
後の世に、救世主と呼ばれる者である。
救世主の本名は伝わっていない。性別すら資料によって異なる。痩せた男だったとも、白髪の女だったとも、人工臓器でかろうじて生きていた老人だったともいう。確かなのは、救世主が世界中を巡り、人々に静かな声で説いたということだけだった。
救世主は怒鳴らなかった。命令もしなかった。涙を流す者の隣に座り、病に苦しむ者の手を握り、子を喪った親の前で深く頭を下げた。そして、こう言った。
「あなたは悪くない。あなたが弱かったのではない。この世界に生まれたことそのものが、すでに苦しみの始まりだったのです」
多くの者は、その言葉に救われた。
それは奇妙な救いだった。明日を生きる勇気を与える言葉ではなかった。努力すれば報われると励ます言葉でもなかった。むしろ、もう頑張らなくていいのだと告げる言葉だった。
世界は苦しい。
生は重すぎる。
だから、これ以上誰も生まれさせてはならない。
それが、愛である。
救世主は世界を巡り、最後に統一議会の大広間に立った。議場には各都市の代表、医師、法学者、宗教者、教育者、企業家、兵士、そして数えきれないほどの記者が集まっていた。議場の外にも人々が押し寄せ、巨大な投影板に映る救世主の姿を見上げていた。
その日、救世主は黒い衣をまとっていたという。
声はかすれていたが、不思議と遠くまで届いた。
「生まれて来ないことが幸いである。生まれて来なければ苦しむことはない。だから我々は生むのを止めよう。自分の大切な子どもたちに苦しみを与えるのはやめよう。そして皆で静かに滅びようではないか」
議場は沈黙した。
誰も拍手をしなかった。誰も怒号を上げなかった。ただ、あまりにも多くの者が泣いていた。
その涙は、悲しみの涙だったのか。
安堵の涙だったのか。
あるいは、自分たちの文明がその日、未来を手放したことを理解した涙だったのか。
それを正確に記録した者はいない。
ただ、その演説の後、世界は変わった。
反出生主義は急速に広がった。はじめは宗教に近いものとして、次に倫理として、最後には常識として定着した。子を望む者は未熟だと見なされ、妊娠を祝う言葉は残酷なものとされた。赤ん坊の泣き声は希望ではなく、世界がまた一つ苦しみを増やした音だと解釈されるようになった。
やがて統一議会は、圧倒的多数の支持を受けて一つの法律を制定した。
反出生主義法
それはエデンという星が、自らの未来を閉じるための法律だった。
第一条、避妊
ヒューマノイドは生まれてくるべきではない。したがって、現在生きているすべてのヒューマノイドには確実な避妊が求められる。統一議会は全星民に避妊手術を施し、それを拒む者には国家反逆罪を適用する。
第二条、中絶
すでに妊娠している者、または避妊手術の失敗によって妊娠した者は、速やかに中絶手術を受けなければならない。中絶ができないほど妊娠が進行している場合、出産後、速やかに新生児を安楽死させる。
第三条、絶滅
ヒューマノイドは本法律に則り、緩やかな絶滅を選択する。絶滅までの間、なるべく苦痛を感じずに生きるため、苦痛を感じないアンドロイドを開発し、衣食住を保障させる。それはエデンにおける最後の一人が死に絶えるまで続けられる。
法案が可決された日、議場の外には白い花が供えられた。
未来への葬儀だった。
皮肉なことにその花は、地球のカーネーションに似ていた。
その花言葉は「愛は生きている」だった。
そんなことを知るはずもない多くの者は胸を撫で下ろした。これでもう、苦しむために生まれてくる子どもはいない。誰も、死を恐れるために目覚めなくていい。誰も、愛した者を喪って泣かなくていい。誰も、自分がなぜ生まれたのかと夜の底で問い続けなくていい。
それは優しさだった。
少なくとも、彼らはそう信じた。
だが、すべての者がその優しさを受け入れたわけではない。
統一議会の中央都市サントベルク。その外れに、古い屋敷があった。白い壁と青い屋根を持つ、小さな庭つきの家だった。庭には季節ごとに花が咲き、窓辺にはリリスという女が好んで育てた香草の鉢が並んでいた。
リリスは美しい女だった。
長い金色の髪を持ち、笑うと目尻に小さなしわが寄った。彼女はそのしわを嫌がっていたが、夫のアダンは、そのしわが好きだと言った。リリスが心から笑っている証だから、と。
アダンは統一議会に仕える騎士だった。
背が高く、黒髪で、いつも隙のない服装をしていた。彼は正しいことを好んだ。法を守り、秩序を重んじ、苦しみを減らすためならば自分の感情を抑えることができた。多くの者から信頼され、将来を嘱望されていた。
リリスは、そんなアダンを愛していた。
アダンもまた、リリスを愛していた。
二人の結婚生活は穏やかだった。朝は同じ食卓につき、夜は互いの一日を語り合った。アダンが任務で遅くなる日、リリスは窓辺に灯りを残して待った。リリスが眠れない夜、アダンは本を読んで聞かせた。
子どもについて話したこともあった。
反出生主義法が制定される前の、まだ若かったころのことだ。
「男の子だったら、あなたに似るかしら」
リリスがそう言うと、アダンは困ったように笑った。
「私に似たら、少し理屈っぽい子になる」
「それなら女の子がいいわ。あなたみたいに真面目で、私みたいにわがままな子」
「それは大変だな」
「でも、きっとかわいいわ」
そう言って二人で笑った。
その会話は、法律ができてからは禁じられた記憶になった。
望んではならないもの。
思い出してもならないもの。
けれど記憶は、法律では消せなかった。
ある雨の午後、リリスは自分の身体の異変に気づいた。最初は疲れだと思った。次に病を疑った。だが医療端末が示した結果を見たとき、彼女は椅子から立ち上がれなくなった。
妊娠
その文字が、透明な画面に冷たく浮かんでいた。
リリスはしばらく声を出せなかった。
ありえないことだった。彼女もアダンも、統一議会の指示に従って避妊手術を受けている。失敗の可能性は限りなく低い。だが、ゼロではなかった。
画面の端で、胎児の心拍を示す小さな光が規則正しく点滅していた。
その光を見た瞬間、リリスは胸の奥をつかまれたような気がした。
怖かった。
だが、それ以上に、愛しかった。
まだ顔も知らない。声も聞いたことがない。抱いたこともない。けれどそこには、確かに誰かがいた。彼女の中で、小さな命が懸命に鼓動していた。
その夜、アダンは帰宅するとすぐに異変に気づいた。
「リリス。顔色が悪い」
リリスは返事をしなかった。暖炉の前の椅子に座り、膝の上で両手を握りしめていた。
「どこか痛むのか」
「アダン」
彼女の声は震えていた。
「落ち着いて聞いて」
アダンは黙って彼女の前に膝をついた。
リリスは長い沈黙のあと、ようやく言った。
「私、妊娠しているの」
暖炉の薪が小さく爆ぜた。
アダンの表情は、ほとんど変わらなかった。ただ、その瞳の奥で何かが大きく揺れた。
「避妊手術を受けているはずなのに」
「ええ」
「検査は」
「端末で確認したわ。間違いないと思う」
アダンは目を閉じた。
騎士としての彼は、すぐに答えを知っていた。速やかに医療機関へ行き、中絶手術を受ける。法律に従う。それが最も苦痛を少なくする道であり、子どものためでもあり、リリスのためでもある。
夫としての彼は、すぐには言えなかった。
リリスの膝の上に置かれた手が、わずかに腹部へ近づいていることに気づいていたからだ。
「大丈夫だ」
アダンは静かに言った。
「安全に中絶できる。お腹の中の子も、君も、苦しむことはない」
それは優しい声だった。
だがリリスの表情は晴れなかった。
彼女は自分の腹をそっと撫でた。
まだ膨らみなどない。外から見れば何も変わらない。けれど彼女には、そこに確かに重みがあるように感じられた。
「ねえ、アダン」
「何だい」
「この子は、本当に苦しむだけなのかしら」
アダンは答えなかった。
「生まれてきたら、確かに泣くかもしれない。痛い思いもするかもしれない。誰かを失って、胸が裂けるほど苦しむかもしれない。でも、それだけなのかしら」
「リリス」
「私たちは、出会えて不幸だった?」
アダンの喉が小さく動いた。
「そんなことはない」
「私、あなたに会えてよかった」
「私もだ」
「なら、この子にも、そういう誰かが現れるかもしれない。生まれてきてよかったと思える瞬間が、一度くらいあるかもしれない」
「その一度のために、何十年もの苦痛を背負わせるのか」
アダンの声には、苦しみが混じっていた。
「私は騎士だ。毎日のように見ている。生きている者がどれほど傷つくかを。親が子を失い、子が親を失い、愛した者同士が憎しみ合う姿を。生まれなければ、あんな苦しみはなかった」
「でも、生まれなければ、私たちが愛し合うこともなかった」
二人は黙った。
その沈黙の中で、雨音だけが続いていた。
やがてリリスは、小さく息を吐いた。
「ごめんなさい。少し一人にしてちょうだい。この子に、お別れを言いたいの」
アダンは彼女を見つめた。
その目には疑いがなかった。リリスを信じていた。彼女が法を破るはずがないと、信じていた。
「ああ。もちろんさ」
アダンは立ち上がり、リリスの頬に口づけた。
「リリス、愛しているよ。もちろん、お腹の子もね」
その言葉を聞いた瞬間、リリスの胸に何かが深く刺さった。
愛している。
ならば、なぜ生まれてはいけないのか。
愛している命を、なぜ存在しなかったものにしなければならないのか。
アダンが部屋を出て行くと、リリスは安楽椅子に深く腰掛けた。暖炉の火が彼女の横顔を赤く照らしていた。彼女は両手で顔を覆い、長く、長く息を吐いた。
頭では理解していた。
この世界に子どもを産み落とすべきではない。生まれた子は必ず苦しむ。飢えなくとも、病まなくとも、愛すれば喪う。夢を見れば破れる。生きるとは、いつか死ぬということだ。ならば初めから生まれないほうがいい。
それはわかっていた。
わかっていたのに。
彼女の中の母親は叫んでいた。
この子に空を見せたい。
雨の匂いを教えたい。
アダンの腕の温かさを知ってほしい。
朝焼けの色を、焼きたてのパンを、春の花を、誰かに名前を呼ばれる喜びを、眠る前に愛していると言われる安心を、たった一つでもいいから知ってほしい。
苦しみがあるからといって、幸福まで奪ってよいのだろうか。
生まれないことだけが、愛なのだろうか。
リリスは顔を上げた。
窓の外では雨がやみかけていた。雲の切れ間から、かすかな光が射している。
彼女は立ち上がった。
美しい金色の髪を後ろでまとめる。必要なものを小さな鞄に詰める。身分端末は置いていく。追跡されるからだ。医療記録も消せるだけ消した。すべて不完全な処置だった。統一議会が本気になれば、彼女の逃亡などすぐに見抜くだろう。
それでも行くしかなかった。
この子を産むために。
彼女は最後に、アダンと二人で撮った古い写真を見た。
そこにはまだ、反出生主義法が世界を覆う前の二人がいた。若く、少し愚かで、未来を信じていた二人だった。
「ごめんなさい」
リリスは写真に向かって囁いた。
「でも、私はこの子に会いたい」
そして彼女は屋敷を出た。
夜のサントベルクは静かだった。街灯は白く、道路は雨に濡れて光っていた。苦痛を感じないアンドロイドたちが、黙々と街の清掃をしていた。彼らは誰もリリスを見咎めなかった。彼らには疑う心がない。苦しむ心がない。だからこそ、この世界の終わりを支える役目を与えられていた。
リリスは歩いた。
やがて歩くことは走ることに変わった。
都市を抜け、監視の薄い旧道を通り、遠くの森を目指した。腹の中の命はまだ小さかったが、彼女にはその重さがわかった。自分一人ではない。その事実が、彼女を恐ろしくさせ、同時に支えていた。
目指す先は、死の森だった。
誰も寄りつかない場所。統一議会の監視網もほとんど届かない場所。古い戦争で汚染され、生き物が長くは暮らせないと噂される場所。
そこなら、逃げ込めるかもしれない。
そこでなら、この子を産めるかもしれない。
リリスは夜明けまで走った。
足は傷つき、肺は焼けるように痛んだ。それでも止まらなかった。彼女の中で、小さな心臓が動いている。その音だけが、世界で最後に残された祈りのように思えた。
そして、彼女は森へ入った。
木々は高く、空を覆っていた。湿った土の匂いがした。鳥の声はなく、虫の羽音もなかった。死の森という名にふさわしく、そこはあまりにも静かだった。
リリスは木の幹に手をつきながら進んだ。
何度も倒れた。何度も立ち上がった。腹の奥に痛みが走り、視界が白くにじんだ。それでも、彼女は腹を抱きしめるようにして歩いた。
「大丈夫」
誰に言うでもなく、彼女は呟いた。
「大丈夫よ。あなたは、生まれてくるの」
その声は震えていた。
やがて彼女は、一本の大木の根元にたどり着いた。見上げるほど太い幹だった。何百年もそこに立ち続け、ヒューマノイドたちの思想も法律も、愛も絶望も、何もかも黙って見下ろしてきたような木だった。
リリスはその幹に背を預け、崩れるように腰を下ろした。
もう動けなかった。
空は枝葉に隠れて見えない。だが、朝が来たことはわかった。森の闇がほんの少し薄らいでいたからだ。
彼女は腹に手を置いた。
「ごめんね」
涙が頬を伝った。
「あなたを、ちゃんと抱いてあげたかった」
痛みが波のように押し寄せた。彼女は声を殺して耐えた。叫べば誰かに見つかるかもしれない。いや、もう見つかっても同じことかもしれない。それでも、彼女は叫ばなかった。
この子を恐れさせたくなかった。
「この世界にはね、辛いことがあるの」
リリスは途切れ途切れに語りかけた。
「悲しいことも、痛いことも、たくさんある。だからみんな、あなたみたいな子は生まれないほうがいいって言うの」
彼女は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「でもね、それだけじゃないの。きれいなものもあるのよ。朝の光とか、雨の匂いとか、誰かの手の温かさとか。あなたのお父さんはね、とても不器用だけど、優しい人なの。あなたを愛しているって言ってくれたのよ」
呼吸が浅くなっていく。
リリスは、自分の命が遠ざかっていくのを感じた。
「だから、お願い」
彼女は腹を撫でた。
「生きて」
そのとき、森の奥で小さな音がした。
ぱきり、と枝を踏む音。
リリスは重いまぶたを開けた。視界の先に、黒いローブをまとった男が立っていた。フードを深くかぶり、顔は見えない。
統一議会の者か。
それとも死神か。
どちらでもよかった。
リリスはもう、ほとんど声を出せなかった。
男は近づいてきた。彼女の腹を見て、低い声で言った。
「妊娠しているのか」
リリスは答えようとした。
声はかすれた。
「どうか、この子を」
男は黙っていた。
「アダムを」
それが、リリスの最後の言葉だった。
彼女は目を閉じた。
頬に一筋の涙を残して、静かに息を引き取った。
黒いローブの男は、しばらく動かなかった。
森は静かだった。遠くで風が枝を揺らしている。死んだ女の腹の中で、小さな命だけがまだかすかに生きていた。
男はゆっくりとフードを外した。
そこに現れた顔は、ひどく疲れていた。深い目をした男だった。かつてはよく笑ったのだろうと思わせる口元に、今はほとんど表情がなかった。
彼の名はサタン。
統一議会に背いた思想犯。
かつてアダンの親友だった男。
そして、滅びゆく星でなお、「生」の側に立とうとした者だった。
サタンは膝をつき、リリスの亡骸に頭を下げた。
「すまない」
それが、誰に向けた謝罪なのかは彼自身にもわからなかった。
救えなかったリリスにか。
これから苦しみの世界へ引きずり出す子どもにか。
あるいは、この世界そのものにか。
サタンはローブの内側から小さな医療ナイフを取り出した。手は震えていなかった。震えている暇はなかった。胎児の心拍は弱っている。迷えば死ぬ。
彼はリリスの腹部に刃を入れた。
血の匂いが森に広がった。
それは生命の匂いだった。
しばらくして、サタンは小さな赤ん坊を取り上げた。男の子だった。あまりにも小さく、あまりにも頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。ヒューマノイドは妊娠から出産までの期間が人間に比べて極めて短い。それが幸いした。胎児は未熟児だっだが、小さな声で哭いた。
この世界に生まれたことを恨むように。
それでもサタンはそんな子どもを両手で包んだ。
「アダム」
男がそう呼ぶと、小さな命は答えるように弱々しい声を上げた。
その声は、死の森にかすかに響いた。
世界はその声を祝福しなかった。
神も、議会も、法律も、誰も祝福しなかった。
けれどサタンだけは、その声を聞いて小さく笑った。
「よく来たな」
彼は赤ん坊を胸に抱いた。
「この世界へ」
その日、エデンに一人の子どもが生まれた。
生まれてくるべきではないと定められた星に。
生まれないことが幸福だと信じられた世界に。
アダムという名の子どもが、生まれた。
銀河の果てに、エデンという名の星があった。 その星は、遠くから見ると宝石のように美しかった。淡い青を帯びた大気が薄絹のように星を包み、白い雲はゆるやかに渦を巻き、夜の側には都市の光が静かな血脈のように浮かんでいた。大陸には深い森があり、透明な湖もあり、山脈の頂にはいつも雪があった。海は黒く、昼には銀を溶かしたように光った。 そこに生きる者たちは、自分たちをヒューマノイドと呼んでいた。 彼らは地球に住むという人間によく似ていた。泣き、笑い、愛し、憎み、夢を見て、失望した。手をつなげばぬくもりを感じ、誰かを喪えば胸が裂けるように痛んだ。空腹になれば食べ、疲れれば眠り、幼いころに聞いた歌を、大人になってもふと思い出した。 つまり彼らは、生きていた。 生きている以上、幸福があった。 朝、窓を開けたときに入ってくる風。焼きたてのパンの匂い。はじめて誰かに名前を呼ばれたときのくすぐったさ。雨上がりの庭で見つけた小さな花。何気ない会話の途中で、相手も同じことを考えていたと知る瞬間。愛する者の寝息を聞きながら、自分はこの人のそばにいてよかったのだと思える夜。 けれど、生きている以上、苦痛もあった。 病があった。裏切りがあった。孤独があった。貧しさがあった。老いがあった。事故があった。争いがあった。どうしても救えない命があり、どうしても取り消せない言葉があり、どうしても戻らない昨日があった。 はじめは、誰もそれを世界の欠陥だとは思っていなかった。 苦しいこともある。だが楽しいこともある。 悲しいこともある。だが美しいものもある。 ヒューマノイドたちは、そうやって長い時間を生きてきた。家族を作り、町を作り、国を作り、空を飛び、病を治し、人工知能を生み、星の裏側と瞬時に言葉を交わすようになった。彼らは自分たちを賢い種族だと信じていた。過去より現在はよくなり、現在より未来はさらによくなる。そう信じることが、文明というものの呼吸だった。 しかし、ある時代を境に、その呼吸は乱れ始めた。 きっかけは小さな言葉だった。 誰が最初に口にしたのかは、もうわからない。歴史書にはいくつもの説が残っている。北方の哲学者が書いた断章だったという者もいる。戦争で子を喪った母親の叫びだったという者もいる。治療不可能な病の患者が残した遺書だったという者もいる。 ただ、その言葉だけ